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山口百恵

yamaguchi_momoe4a (1)


日本の女優(山口 百恵)より



生きる

人々は日々、生きている。単純なことである。そして生きているのは、命を授かっているから生きている。
命は、皇帝の命も、アイドルの命も、日本人の命も、さまざまな外国人の命も、病人の命も、子供の命も、老人の命も、すべて同じ命である。皇帝やアイドルの命が尊くて、病気の老人の命は価値が劣るということはない。誰でも、等しく輝く命をもって生きている。


命は、呼吸と同じで、瞬間瞬間に変化している。庶民から皇帝になったり、庶民から太閤になったりする例は昔からある。ごく普通の少女が大アイドルに変化することもある。一生の中で、命は大きく変化する。


同じ生きるなら、大きな夢をもって生きてみたいと人は思う。子供や若者にとって、夢のかなうところは、芸能界である場合が多い。山口 百恵の場合もそうだった。


芸能界やプロ スポーツ選手を目指す若者はたくさんいる。しかしその世界で成功する人はほんの僅かである。


子供のときから、芸能界を目指す者が大勢いる。山口 百恵の友達であった桜田 淳子もそのひとりだった。彼女は東北の秋田で生まれ、育った。東北弁が生活環境に息づいている生活の中で育った。しかし「スター誕生」で、アイドルとしてデビューする桜田 淳子の発声に東北弁がないことを指摘されたとき、彼女は、「小さいときから、大きくなったら東京に出て芸能界に入りたいと思っていました。ですから、ふだん喋るときも、かならず標準語を喋るように心がけました。本を読むときには、声に出して読みました。標準語の勉強になるからです」と歯切れのいい口調で答えたという。芸能界に入りたいという夢を実現するために、桜田 淳子は子供のときから自分で意識的に訓練していたのである。


子供時代

大人はときどき子供時代の自分を思い出して、現在の自分の姿を見つめなおそうとする。大人でなくても、思春期になれば、人は子供時代の自分を思い出して、現在の自分を確認しようとする。


山口 百恵にとって、子供時代の大切な思い出は、父と、子供時代に育った海の見える横須賀の町である。


山口 百恵の父親は、籍の入った父親ではなかった。その父親には、本当の家庭が別にあり、百恵の家にはたまに来るだけであった。それでも、その家庭環境の中で、百恵が性格的にゆがんだ様子はない。学友からいじめられた様子もない。母親の大きな愛の中につつまれて育った。5つ年下の、同じ父親の下に生まれた妹もいたが、家庭は貧しいながらも、母親のお陰で、百恵は正直さを失うことなく育った。


「出生の秘密」を知ったのは、彼女が高校へ入学してすぐのころである。


「すでにその頃、芸能界で仕事をしていた私の、ゴシップのひとつとして週刊誌が戸籍謄本を『出生の秘密』と題して掲載したのである。事実を知らされても、私は驚かなかった。そうだからといって、母に対する気持ちも、自分が現在生きているということに対しても、何も変わりなかった。それに、何よりも、私にはそれまで一度として引け目を感じさせてこなかった強い存在----母親がついていた。記事を読みながら、私は改めて母に感謝した」
「出生の秘密」がゴシップとして世間に暴露されることは、若い少女にとって、かなりショッキングなことであったはずである。人はちょっとしたことで動揺する。自分を見失う。山口 百恵は「出生の秘密」を暴露する大人社会の嫌がらせに対して、怯むことなく、それまで一度として引け目を感じさせてこなかった強い母に感謝した。この「母への感謝」の気持ちには嘘がない。それが山口 百恵の強さであり、本性である。


横須賀に関しては、彼女はこのように書いている。
「横須賀----- 誰かがこの名前をつぶやくだけで胸をしめつけられるような懐かしさを覚える。あの街は、私に優しかった。雨も海からの潮風も、陽ざしも、緑も、何もかもがさりげなく、私を包んでいてくれた。あの街で暮らしていた六年間の私が一番好きだった。
自由だった。
正直だった。
無理に突っ張ろうともせず、突っ張りもしなかった。必要がなかったのかもしれない。自分の意識の中での私自身は、あの街にいる。あの坂道を駆け、海を見つめ、あの街角を歩いている。私の原点は、あの街---- 横須賀」
子供時代、山口 百恵は、貧しいながらも、母親の愛に包まれて、自由に、正直に育った。


スター誕生

「スター誕生」を通して、山口 百恵が15歳でデビューする頃、歌謡番組がテレビに頻繁に流れていた。美空 ひばり、青江 三奈、都 はるみ、水原 弘、水前寺 清子、藤 圭子、和田 アキ子や橋 幸夫、舟木 一夫、西郷 輝彦の御三家をはじめ、野口 五郎、郷 ひろみ、西城 秀樹の新御三家、小柳 ルミ子、天地 真理、南 沙織のアイドル三人娘、アグネス・チャン、麻丘 めぐみ、浅田 美代子、60年代最大の芸能プロダクションといわれた渡辺プロダクションに所属する沢田 研二、布施 明、森 進一などがテレビの歌謡番組に頻繁に出演していた。


丁度団塊の世代が大学生になった頃で、世の中は、70年安保紛争で、大学は封鎖され、ほとんど授業の行われない年もあった。若者は世の中の政治に不満を抱き、世界的に社会体制に対する反発が起きた時代である。ビートルズの熱狂がまだ続いていた。人々は音楽に安らぎを求めていた。


カレッジ・フォーク的な曲がヒットしたのもこの頃である。吉田 拓郎の「結婚しようよ」「旅の宿」、井上 陽水の「傘がない」「夢の中へ」「心もよう」「氷の世界」、六文銭と上條 恒彦の「出発(たびだち)の歌」、ガロの「学生街の喫茶店」、ビリー・バンバンの「白いブランコ」、トワ・エ・モアの「或る日突然」、カルメン・マキの「時には母のない子のように」、加藤 登紀子の「ひとり寝の子守歌」、荒井 由美の「あの日にかえりたい」、南 こうせつとかぐや姫の「神田川」のような曲が若者の支持を得ていた。


さらに66年のビートルズの来日騒動をピークに、エレキ・バンド編成で歌を歌うグループ・サウンズの台頭がある。堺 正章、井上 順、かまやつ ひろしのいたスパイダース、沢田 研二のいたタイガーズ、萩原 健一のいたテンプターズなどのGSが70年代にも絶大な人気を博していた。
多様な音楽が人々の心を捉えていた。日本国中の子供たちも、よくテレビやラジオで音楽を聞いていた。山口 百恵もよく歌謡曲を聴いていたひとりである。


「スター誕生」は番組編成をめぐって渡辺プロと対立した日本テレビが企画したタレント・スカウト番組で、71年から、毎週日曜日午前11時から55分間放送した人気番組である。森 昌子がこの番組出身の第1号タレントだった。72年秋のチャンピオン大会で、桜田 淳子がグランドチャンピオンになり、第2号のタレントになった。


山口 百恵が歌手という職業に憧れたのは、小学校の高学年の頃だったという。憧れたといっても、金銭的な大きさに憧れたのではなく、幼い少女がお伽話のヒロインを夢見る、その程度の気持ち。


山口 百恵が書いている。
「中学校に入った頃に、『スター誕生』という、いわゆるスカウト番組が始まった。それは、それまでにあった真剣すぎる番組ではなく、和気あいあいと進行していた。
私はその番組のファンで、毎週日曜日になるとチャンネルを合わせていた。ある日、そこに十三歳の少女が登場した。それまでのスカウト番組では、異例の若さだった。
私と同い年。
そう思ったとたん、私にもできるかもしれないという気持ちが芽生えた。中学二年の夏休み、友達と何人かで応募葉書を出した。落ちてもともと、そんな気持ちだった。----通知葉書に書かれた番号は101番、私は『回転木馬』という歌を歌った。」
予想していたよりはるかに順調に、1次、2次と合格し、テレビ予選への出演が決まる。1ヶ月ほど後に、テレビの録画があるから後楽園ホールへ来なさいという連絡がある。その本番で、審査員のひとりが百恵を批評した。
「『君は、例えば誰か青春スターの妹役みたいなものならいいけど、歌は・・・・・あきらめた方がいいかもしれないねェ』とその人は言った。僅かながら持ち合わせていた自信は、ガラガラと音をたててくずれてしまった。」
それでも、規定以上の点数を集め、山口 百恵は決勝大会への出場を決める。前の時と同じ歌を歌い、決勝2位で、スカウトされる。そのときのことを、彼女は書いている。
「何故、あの時、合格できると思えたのか、今もって不思議でならない。目に見えない天啓だったのか、単純な自己暗示だったのか、とにかく発表を聞く前に、私は歌手になれることをはっきり確信していたのである」
ここに書いているように、嘘でなく、山口 百恵は発表を聞く前に歌手になれることを確信していた。自己暗示もあるにせよ、この彼女の強さが彼女の女優人生を切り開いていく。


歌手そして女優、山口 百恵へと

山口 百恵のデビュー曲「としごろ」は、桜田 淳子の「天使も夢見る」の発売と同時の大ヒットに比べると、あまり目立つ売れ行きではなかった。
「スター誕生」からは、森 昌子、桜田 淳子、山口 百恵、岩崎 宏美、ピンク・レディー、小泉 今日子、中森 明菜のような歌手が育ったが、ヒットを出さずに消えていった歌手もたくさんいる。掃いて捨てるほど、歌手になりたい人間がたくさんいた。


二作目の「青い果実」というタイトルの曲を事務所で渡されたときの山口 百恵の不安と恐怖のことが書かれている。その曲は、「あなたが望むなら 私何をされてもいいわ」という歌詞ではじまっている。そのとき彼女は十四歳の夏を迎えていた。
当時の歌謡界全体がいわゆる「かわいこちゃんブーム」で、流行っている歌は「天使」や「夢」「花」がテーマになっていた。活躍している同世代の女性歌手は一様にミニスカートの服を着て、細く形のよい足で軽やかなステップを踏みながら、満面に笑みを浮かべて歌っていた。細い足と軽やかなステップと満面の笑みの時代だったのである。
彼女は書いている。
「そんな中で、このような詩を私が歌ったら・・・・。そんな罪悪感にも似たものが私の意識の中で頭をもたげていた。『こんな詩、歌うんですか』言ったか言わなかったかは、定かではないが、口に出さないまでも、気持ちは完全に拒否していた。皆と違うように見られたら----幼い恐怖心と防衛本能が私をためらわせた」
まだ14歳であるから、皆と違うように見られることは恐怖である。正直で自由で無垢で純粋な百恵が「あなたが望むなら 私何をされてもいいわ」という歌詞を前にしたときの恐怖は想像に余りある。彼女はとっても怖かった。
そして彼女は書く。
「そうはいっても私の躊躇など、ビジネスのシステムの中では何の意味も持たず、結局スタジオに連れて行かれ、ひとりきりの世界へ閉じ込められてしまった。ヘッドフォンから流れてくるその歌のカラオケ、それに合わせて仕方なく歌った----つもりだったが、 何故だかメロディーに乗せて歌ったとたん、さっきまでのためらいはすっかり消えていた。こんな歌----と思い悩んだ時から数時間しか経過していないというのに、私はその歌がとても好きになっていた。以来、私の歌は「青い性」路線といわれ、それまでのその年代の人たちとは変わったタイプの歌を歌っていくようになっていった」
「青い果実」という、14歳の少女にとって、とっても怖い内容の歌であったにも拘らず、彼女はその歌を、無垢で純粋な彼女が自由に、自分の歌として、愛情をもって歌うことができた。百恵は、恐怖を飛ぶことができた。飛ぶ少女になることができた。彼女は屈辱を栄光に変えることができた。そしてこのレコードはヒットを飛ばす。


五作目の「ひと夏の経験」は、「あなたに 女の子のいちばん大切なものをあげるわ」という歌詞ではじまる。無垢で純粋な百恵がこの歌を歌うと、大人や男性に媚びた様子はまったくなくて、きわめて自然な女性の心理、女の子の微妙な心理を歌い上げる、凄みを秘めた歌になった。


「年端もいかない女の子に、あんな下品な歌を歌わせて」
「あの子は、意味がわかっているのかね」
「こんな歌じゃ、売れるわけがない」
「不良少女」
などという世間の大人たちの反発を尻目に、恐怖と不安を自由に乗り越え、山口 百恵は自分の歌のジャンルを確立し、自分の歌のひとつひとつに、自分の中の女を通して、女の子の微妙な心理を確認していった。彼女は歌とともに成長し、恐怖を自由へと変える術、屈辱を栄光に変える術を確立したのである。


歌手と同時に、女優としても、山口 百恵は頭角をあらわす。「伊豆の踊子」「風立ちぬ」「潮騒」「春琴抄」をはじめ、「赤い運命」などの赤シリーズの作品がいずれもヒットした。


山口 百恵は、アイドルとして、人形のように、一日に同じ歌を繰り返し歌うことに反発した。ごく自然に、彼女は自分のスタッフを求めるようになっていった。照明、音響、舞台監督、バンド、歌手が一体となって、ひとつのステージをつくっていくための、気兼ねなくデスカッションできるスタッフが欲しかった。そして彼女は「山口 百恵プロジェクト」を作り上げる。


「横須賀ストーリー」以来、山口 百恵のヒット曲の大半は、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの宇崎 竜童と阿木 耀子のコンビが担当した。他にも、さだまさしの「秋桜(こすもす)」、谷村 新司の「いい日旅立ち」など、ニューミュージック系の人気ミュージシャンが彼女のソングライターとして起用された。山口 百恵は、自分から宇崎・阿木コンビをソングライターに指名するなど、つくられたアイドルではなく、プロデュースに参加する歌謡曲歌手というイメージを作り出した。山口 百恵は時代を象徴する少女へと成長する。


引退

79年(S54年)10月20日の大阪厚生年金ホールのステージで、山口 百恵は「私の好きな人は、(三浦)友和さんです」と恋人宣言をする。彼女がまだ15歳の、頬にふっくらとした幼さを残した頃に、三浦 友和に出会った。はじめはまだ恋と呼べるほどのものではない。しかし彼女は誠実にその秘めた恋を育んでいく。


結婚前後のことを、山口 百恵はこのように書いている。
「あの夜、ベッドの入り眠りにつくまでの、わずかな時間、私は空(くう)を見つめていた。自分の神経が、普段と比べて特別波立っているようにも思えないその夜、何の脈略もなしに私は考えた。
「結婚したら仕事を辞めよう」
あの時にはまだ、ふたりの間で“結婚”という言葉を、正式に取り交わしていなかった。ただ、このままいけば私は多分、この人と結婚するだろうとだけ、漠然とだが予感していた。
やっぱり、仕事を辞めよう----
ある日突然に私の心に浮かんだ結論。直感としか言いようがなかった」
結婚と同時に引退するということは、夫となる三浦 友和氏をはじめ、双方の家族、ホリ・プロダクションともよく話し合い、了解を得て決められた。


山口 百恵の二十歳の引退は、日本国中の話題となった。
彼女は、自分に正直で、自由で、何よりも屈辱を栄光に変えた強い女性だった。




山口百恵~最後の言葉と「さよならの向う側」





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